諏訪湖に源を発する天竜川は、「暴れ天竜」の異名で呼ばれるほど氾濫によって沿岸住民を苦しめてきた。特に有名であったのが正徳5年(1715)の未満水であった。
飯田藩では、水害を防ぎ、水田を開発して藩の財政を豊かにするために、天竜川やその支流に川除堤防を築いた。その代表的なものに下市田に築いた惣兵衛堤防がある。寛延元年(1748)藩主堀親長、奉行黒須楠右衛門、工事担当者、中村惣兵衛。技術優秀の名声が高かった中村惣兵衛に白羽の矢があたり、対岸など反対の厳しい条件の中で完成したので、この堤防を「惣兵衛堤防」と呼び、後世まで語り継ぐよう努力してきたが惜しくも三六災害の時流失した。