日本最古の銅製鋳造貨幣「富本銭」

■富本銭とは?

平成11年1月19日、奈良国立文化財研究所は、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から出土した大量の「富本銭」を分析した結果、日本最古の流通貨幣である可能性が極めて高いと発表した。

中学校で使用していた教科書には、和銅元年(708年)日本で初めて「和同開珎」(わどうかいちん)または(わどうかいほう)という貨幣が造られたと書かれていた。

和銅3年(710年)藤原京から平城京へ都が移されるが、和同開珎はこの奈良の都を建設するために造られた貨幣だと考えられていた。

しかし、奈良時代に書かれた『日本書紀』という歴史書には、天武12年(683年)4月の条に記されている「今より以降、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」という記述や、持統8年(694年)3月「鋳(じゅ)銭司(せんし)に拝す」とか、文武3年(699年)12月「初めて鋳(じゅ)銭司(せんし)を置く」など、鋳銭司を設置した記事があり、708年に日本最初の貨幣、和同開珎が造られたとすると、これらの記事と矛盾し、ここに書かれている貨幣とはいったい何を指しているのか、長い間の大きな謎であった。

富本銭は、昭和44年(1969年)と昭和60年(1985年)に平城京遺跡から2枚出土し、平成3年(1991年)と5年(1993年)には藤原京跡遺跡から2枚、さらに、平成8年(1996年)には、大阪市細工(さいく)谷(だに)遺跡「難波(なにわ)京(きょう)跡」から1枚の計5枚が確認されているが、今までは江戸時代に模鋳された絵銭であるとか、奈良時代に造られた厭(よう)勝(しょう)銭(せん)【おまじない銭】と考えられ、それが古代史や貨幣史の定説として落ち着いていた。

ところが、平成10年(1998年)、奈良飛鳥池遺跡の発掘によって33枚分(発表時)の富本銭が出土し、富本銭が飛鳥池遺跡で鋳造されていたこと、7世紀後半に遡る銅銭であることが確認されたために、富本銭が和同開珎より古い貨幣であることが明らかになった。

これによって、前記『日本書紀』に書かれている記事に関している可能性が高まってきた。

 

■富本・七曜の意味は?

富本銭の上下に刻まれている「富」・「本」の意味は、中国の唐の時代に出された『藝(げい)文(もん)類聚(るいじゅう)』という本に出ている「富民之本、在於食貨」(民を富ませる本は、食と貨幣にある)という故事に関係しているのではないかといわれている。

また、富本銭の左右に配置されている七曜の星は、中国の陰陽五行思想によるものと考えられている。

すなわち、古代中国においては、一切の万物は陰(月)と陽(日)の二気によって生じ、五行中、木・火は陽に、金・水は陰に属し、土はその中間であるとし、これらの消長によって天地の異変、人事の吉凶等を説明しようとする思想であり、日本でも易学に取り入れられてきている。

 

武陵地1号古墳出土の富本銭

■富本銭の調査結果

◎富本銭の形状

大きさ/直径2.41×2.38㎝  厚さ/0,13㎝  重量/3.02g

◎飛鳥池遺跡出土の富本銭との比較

「わずかに外径が小さく、重量も軽いが、銭文の特徴が一致する。特に七曜の配置や、「富」「本」字の特徴は細部に至るまで、完全に飛鳥池遺跡の富本銭に一致、江戸時代に模鋳された絵銭とは異なることが確認された。」

「非破壊の蛍光X線分析による成分分析では、銅を主成分にアンチモンを顕著に含有することが判明した。このほかに少量の砒素・ビスマス・銀・鉛を含有する。アンチモンを顕著に含有する特徴は、これまで出土したすべての富本銭に共通し、藤原宮期前後(7世紀後半~8世紀初頭)の銅製品の中にこの特徴を示す一群の存在が認められる。以上のように成分的にみて、武陵地1号古墳出土の富本銭は、飛鳥池遺跡の富本銭に酷似し、この富本銭が古代のものであることに間違いなく、飛鳥池遺跡で鋳造された可能性も残る。」

 

■富本銭が出土した武陵地1号古墳

富本銭出土の部領地1号古墳
富本銭出土の武陵地1号古墳

 

富本銭が出土した武陵地1号古墳は、高森町下市田の南部に位置し、国道153号線から西へ50m入った小川博志宅横に現存する平地上に築かれた円墳である。

現状は南北18.9m、石室入口前からの高さ4.1m、主体部は南南西に開口する横穴式石室で、主軸方向N20E、全長8.6m、底部最大幅2.1m、高さ2.5mで、横穴式石室を持つ円墳としては、近辺でも大型の部類に属している。

墳丘頂部には、イチイの常緑高木が空高くそびえ、遠方からもその所在が確認されやすく、寛政元年(1789年)建立の秋葉大権現の碑が祀られ、近所の講仲間が集まってお祭りをしていたので、地域の人々は通称で「秋葉塔の塚」と呼んでいる。

また、南大島川をはさんで飯田市座光寺地区と隣接しているが、この一帯は飯田下伊那北部の古墳密集地域で、前方後円墳の高岡1号古墳をはじめ、新井原・武陵地一帯に拡がる古墳群を形成し、古代においては一連の生活地域と考えた方が極自然と思われる。

それに南大島川をはさんだ座光寺地区恒川遺跡は、奈良時代から平安初期にかけて郡役所がおかれた「伊那郡衙」跡で、硯・三彩陶器など郡役所で使用されたと思われる遺物が出土しているほか、日本でも数少ない和同銀銭が出土するなど極めて重要な遺跡(平成26年国史跡指定)で、武陵地1号古墳とは目と鼻の先にあり、富本銭が出てもおかしくない地域と識者は指摘している。

 

■富本銭と同じ古墳から出た出土物

「下伊那史」第二巻(昭和30年刊)に記載されている武陵地1号古墳から出土した遺物は、その数も多く内容も豊富であったが、多くのものは散逸してしまい、現在資料館に寄託され、展示してあるものは下記のものだけである。

 

鐔…1   切羽…1   直刀…2   鉄鏃…1    丸玉…2   金環…1

須恵器…7(はそう2・壺2・ミニチュアの杯3)古銭…3(「富本」・「煕寧元寳」・不明)
富本銭がいつ武陵地1号古墳に副葬されたのかについての確定的な資料や、積極的な判定材料はないが、奈良国立文化財研究所で、一緒に出た遺物を検討した結果、須恵器の制作時期は、7世紀前半、7世紀後半、8世紀中頃以降の大きく3時期の分かれそうであること、金銅装の倒卵形をした鐔も、6個の台形を透かした六窓鐔で、7世紀前半に位置づけられる。したがって現存資料を見る限り、古墳の築造年代は7世紀前半と推定される。

なお、近接する伊那郡衙である飯田市座光寺恒川遺跡から、数少ない貴重な和同銀銭が出土していること、武陵地古墳の近傍が東山道のルートにあたること等々関連して考えると、富本銭の副葬は7世紀後半の追葬時ではなかろうかと考えられている。

 

 

■高森出土後の富本銭

平成11年(1999年)1月12日発表時は、飛鳥池遺跡の発掘によって33枚分の富本銭が出土した。ところが、その後の発掘により、飛鳥池遺跡では、出土数が560点を数えたが、それらの多くは制作時に生じた失敗品であり、富本銭の制作技術を解明するための好資料となっている。

そして、平成19年(2007年)、藤原京大極殿院南門の調査で、藤原京地鎮祭遺構が発見され、その大極殿院南門付近で平瓶の口縁部に富本銭が9枚、平瓶の内部に水晶が9点存在することが明らかになった。しかし、飛鳥池遺跡の富本銭は、「富」字がウ冠であるが、個々のものは、第1画の点がなくワ冠につくられており、富本銭の字体が異なっていて、このことから二種類の富本銭が存在することが判明した。