本館1F(民俗)

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モノは百年以上たつと神になる

当資料館には、古い民具や考古遺物がたくさん収蔵されています。中には百年以上前のモノもあります。わが国では百年以上たつとモノは付(つく)喪神(もがみ)という神になるといわれてきました。ケルト民族は収穫期を終えたハロウィンの日に化け物が現れるので、いたずらをされぬようお菓子などを配るとされています。わが国でも「百鬼夜行絵図」中に描かれるモノたちは鬼として描かれていますが、本来は長く使われてきたモノにたいして敬意と愛着を持って「神」扱いをするのが、わが国の先人たちの知恵だったといえましょう。モッタイナイ精神でモノを大切に扱ってきたことに思いを致し、モノの役割やその価値を再認識したいと考えました。

そこで「絵引き・民具の事典」や「最新・日本考古学用語辞典」などの力を借りて、民具や考古遺物についてのリーフレットをつくってみました。民具などのモノの知識を定着するために「付喪神検定」も始めています。興味がわいた皆様は、当館にお越しいただき、モノの再認識に挑戦いただければ幸いです。

参考資料 大徳寺真珠庵「百鬼夜行絵巻」(東大付属図書館)

当館の「付(つく)喪神(もがみ)」(No.1)
鋏(わばさみ・にぎりばさみ)

大徳寺真珠庵「百鬼夜行絵巻」にみられる付喪神
当館第2展示室収蔵「鋏」

日本の和鋏は古代ギリシアに起源をもつU字形で中間がばねになったはさみ(ギリシア型)である。
日本へは中国を通して伝わったと考えられており、古墳からの出土例もある
鶴岡八幡宮には、源頼朝が後白河法皇から賜ったはさみが遺されており、北条政子が使用していたと伝わるはさみである。
ギリシア型のはさみが現代まで広く生産・使用されているのは日本のみである。だが日本でも洋鋏が主流となっており和鋏が使用されるのは糸切り鋏や飴細工用など限定された用途である。(フリー百科事典「ウィキペディア」)

 日本でX支点のはさみがかなり古くから知られていたことは、正倉院御物の中に金銅剪子として納められていることからも分かる。8世紀のころ、すでに中間支点のX型の存在が知られていながら、握り鋏を温存し続けた独特の日本の文化の在り方は大変興味深いといえよう。(美鈴ハサミ株式会社HP)

当館の「付(つく)喪神(もがみ)」(No.2)
釜(かま)

大徳寺真珠庵「百鬼夜行絵巻」にみられる付喪神
当館第2展示室収蔵「釜」

西日本では古墳時代以降の遺跡から竈(かまど)形土器が出土しているが、これらは中国の釜竈と類似点が見られる。
古来、釜は神聖視され、盟神探(くがたち)湯、湯(ゆ)立(だて)、鳴(なる)釜(かま)神事(しんじ)等の釜を使った呪術がある。…(中略)
15世紀、茶の湯文化が公家、武家、寺社などの階層から、都市の町衆など庶民に広まると鋳鉄製の茶釜が盛んに作られるようになった。釜の銅部分に縁、鍔(つば)をつけた羽(は)窯(がま)は、竈と組み合わせて長らく炊飯用に用いられてきたが、一般家庭の台所にエネルギー革命が及ぶと竈とともに使用されなくなった。1920年代には「ガスかまど」として、羽窯専用のガスレンジ台も登場したが、1970年代には姿を消した。なお代わって普及した電気炊飯器にも「内釜」として、釜の部分は存在し続けている。(フリー百科事典「ウィキペディア」)

当初の電気炊飯器(当館「昭和の部屋」前ケース収蔵)

当館の「付(つく)喪神(もがみ)」(No.3)
草履・草鞋(ぞうり・わらじ)・俵(たわら)

大徳寺真珠庵「百鬼夜行絵巻」にみられる付喪神
当館第2展示室収蔵「俵(棚下)・草履(棚上)」

草履(ぞうり)
平安時代中期に草鞋を改良したものが草履だといわれています。青森県の津軽や岩手県の南部では、畑仕事や家の内外などで履いたそうです。昭和10年頃まで、学校で履いていた地域もあるようです。

草鞋(わらじ)

奈良時代に中国から藁(わら)の履物が伝わり、平安時代に爪先で鼻緒をはさむよう改良されて誕生したのが草履です。稲ワラでつくられ、ヒモを足首まで巻きつけて結びます。
履物は縄文時代から使われていました。縄文時代に使われていた履物は、足を包み込む「モカシン」のような形状だったといわれています。
古代から使われながら、靴よりも草履が発達したことにはどのような理由があるのでしょうか。まず、考えられるのが、「家の中では靴を脱ぐ」という日本の文化です。家に出入りするときに履物を着脱しなければならないので、靴ではなく草履の方が便利といえます。そのため、日本では靴よりも草履が発達したと考えられるのです。また、日本ならではの気候も関係しています。湿度が高い日本では、靴を履いていると足が蒸れてしまいます。このことから、蒸れにくく通気性のよい草履が発達したとされるのです。(株式会社青木本店HP)

俵(たわら)

俵は、米などの穀類のほか、塩、魚、木炭、石炭などの輸送や保存のために用いるわらを円筒状に編んだもの。…穀物の保存や輸送に大事な役割を果たしたため信仰の対象とされた。福俵として縁起物にもされる。(フリー百科事典「ウィキペディア」)

当館の「付(つく)喪神(もがみ)」(No.4)
鍋(なべ)

大徳寺真珠庵「百鬼夜行絵巻」にみられる付喪神
当館第2展示室収蔵「五徳にかけた弦鍋」

煮炊きに使う調理器具。土製と鉄製があり、古くから土製を「堝」、鉄製を「鍋」と書き分けていた。鉄を型に流し込んでつくる鋳物製の鉄鍋が出現するのは平安時代で、当時は「かななべ」と呼ばれていた。鎌倉時代以降、鉄鍋が広く浸透したが、その残存例は少ない。それは鉄が貴重であったから、痛むとその箇所を修理しながら使い、それも困難になると溶かして新しい鍋や他の道具の材料とすることが繰り返されたからである。鍋や釜の修理を専門にする職人をと。鋳掛屋(いかけや)といい、昭和30年代までみられた。
鉄鍋には弦をつけた弦(つる)鍋(なべ)と、弦のない大鍋(おおなべ)がある。大鍋は竈(かまど)に据え付けて使われることが多かったが、弦鍋は囲炉裏(いろり)で自在(じざい)鉤(かぎ)に掛けて使うのが一般的であった。囲炉裏は中部日本の山間地から東日本で多かったから、弦鍋もその地域の主要な煮炊具であった。竈と羽窯が西日本型、囲炉裏と鍋が東日本型ということができる。
耳を内側につけたものを内耳堝(ないじなべ)といい、これは弦のフジズルが燃えない工夫であった。土堝の系統は、江戸時代につくられるようになったといわれる粥炊き用の行平(ゆきひら)や、焙烙(ほうろく)、現在も良く使われる鍋物用の土堝に受け継がれている。
(「絵引 民具の辞典」河出書房新社2008引用)


当館 第2展示室 収蔵「行平堝」

当館の「付(つく)喪神(もがみ)」(No.5)
壺(つぼ)

当館第2展示室収蔵「徳利」

甕(かめ)とともにさまざまに使われてきた容器のひとつ。甕と壺は、混同されがちで、同形の甕といったり、壺といったりする例もしばしばあるが、壺は胴がふくらみ口が小さいものを指すのが一般的で、頸は長短がある。また、口の広い小形のものも壺といい、小出しにする味噌や塩、ラッキョウや梅干しなどを入れた。それらの多くは共蓋付である。口の小さな長頸・短頸の壺は、穀物や種物、茶葉などの保存容器で、木の栓をし、さらに和紙を被せて紐でしばり密封した。壺は、甕に比べると小形が多いが、茶葉の保存や運搬に使われた茶壺には、高さが80cm以上もある大きなものもあった。
おもに西南日本では自家醸造の味噌や醤油、焼酎や濁酒作りにも使われた。(「絵引 民具の辞典」河出書房新社2008引用)

当館ロビー展示「増野新切遺跡D14号住居址出土(縄文中期後半)壺型土器」

当館の「付(つく)喪神(もがみ)」(No.6)
甕(かめ)

当館2階第3展示室「中谷遺跡出土須恵器大甕」

この大甕が神坂峠をどうやって越えて来たか?

陶磁器容器のうち、一般に口が大きく、ふくらみをもつ胴が下方になるにしたがってすぼまった形のものをいう。縄文時代からすやきのものが使われていたが、12世紀初頭に無釉の焼締め陶器が出現し、次いで釉薬をかけた陶器がつくられるようになると、用途はさらに広まった。縄文時代以来用いられていた水甕をはじめ、味噌甕・醤油甕・漬物甕・油甕・酒甕など、飲・食料の一時あるいは長期の貯蔵容器としてである。水甕は、井戸や貯水池から水汲桶で運んできた水を注ぎ入れておき、柄杓で汲み出して使う、このようにまとまった量を入れたり、頻繁に汲み出す容器には、口の広い甕が適していた。
(中略)
焼物を製造する窯業は西南日本で早く発達していたが、大きな甕を焼く窯場はそのなかでもごく限られていた。常滑焼(愛知県)・大谷焼(徳島県)・・・苗代川焼(鹿児島県)などである。いずれも海辺に近いところにある窯場であった。大型の焼物を輸送するには、船による輸送に頼らざるをえなかったからである。甕は広範囲に普及したが、山間部や東北地方にまではなかなか及ばなかった。それは輸送の問題もあったが、寒冷地では冬期になると水が凍り、水甕が割れてしまうという気候条件もあった。
(「絵引 民具の辞典」河出書房新社2008引用)

当館の「付(つく)喪神(もがみ)」(No.7)
金精様(こんせいさま)

男性器をかたどった性神のひとつ。生殖力・夫婦和合・縁結び・出産・下の病などに効験があるとされる。木・石・陶器・金属などで作って祠に祀ったり奉納したりする。その原形は縄文時代の石棒にまでさかのぼる。塞の神・道祖神と同じ神とも信仰される。金精大明神や金精権現とも称し、東北地方におもに分布する。なお偶
然性器に類似した自然の造形物(*)を信仰対象にする場合もある。
「絵引 民具の辞典」河出書房新社2008引用

*当館にも本学神社から寄託されたものがある

石棒(せきぼう)

当館ロビー展示「増野新切遺跡D14号住居址出土(縄文中期後半)石棒・丸石」
当館ロビー展示「瑠璃時前遺跡出土(中島)3号住居址出土(縄文後期)石棒」

当館の「付(つく)喪神(もがみ)」(No.8)
山の神(やまのかみ)

猟師・杣(そま)師・木地(きじ)師をはじめ山を生業の場とする者を守護する神。農耕に従事する者の信仰する山の神もある。それは山の神が春に里に下って田の神となり、秋の収穫が済むと山に帰って山の神となるという信仰に基づく。また山の神は女性神であるという信仰が、広く濃厚に分布する。1年に12人の子を産む十ニ様とするところもあり、その出産を助けたため福徳を授けられた男性神、あるいは男女二神と信ずるもの
もある。 こうした山の神は、大小さまざまな石像として小祠に祀られることが多い。山中の古木を神体とするところもある。その祀り方もさまざまで、山の神は女性神なので男根造形物を供えたり、山の神は不美人なのでさらに醜いオコゼを供えて安心させたりするという。
「絵引 民具の辞典」河出書房新社2008引用

土偶(どぐう)


当館2階第3展示室「増野新切遺跡D-1号住居址出土(縄文中期)土偶」(下伊那教育会所蔵)

人体をかたどってつくられた縄文時代の素焼きの人形。…胸には大きな乳房があり、明らかに女性の体を模している。…また、土偶は完全な形で出土することが少ないことから、故意に破損したといわれるが、その証拠はない。
「角川日本陶磁大辞典」凸版印刷2002一部引用

当館の「付(つく)喪神(もがみ)」(No.9)
棺(かんおけ)

死者を葬るにあたり、遺骸を入れる桶。死者が出たときに桶屋に頼んで急いでつくるので早桶ともいう。結(ゆい)桶(おけ)を棺に用いるのは近世以降のことで、古墳時代から石棺・甕棺・木棺などあり、形態も多様であった。多く座棺で、手足を折り曲げて納めた。生前足の悪かった人の遺言による場合や分限者(ぶげんしゃ)(*)は、よく寝棺を使用した。今日では寝棺が一般的である。
*「分限者」:物持ち・金持ち
「絵引 民具の辞典」河出書房新社2008引用

甕棺(かめかん)

遺骸を土葬するために納める甕形土器。壺型の場合は壺棺という九州・四国など一部の地域では近代まで陶製甕が使われていた。縄文時代にまでさかのぼるが、多くは小児や乳幼児を埋葬したものであった。東北地方では、縄文時代後期の成人骨を再納し甕や壺が発掘されている。弥生時代前期末にいたって成人用の大形甕棺が出現する。被葬者に応じた大きさの甕が使い分けされるようになったとみられる。
「絵引 民具の辞典」河出書房新社2008引用

当館2階第3展示室「深山田遺跡3号合わせ口土器棺

当館の「付(つく)喪神(もがみ)」(No.10)
門松(かどまつ)

当館玄関前「門松」 2023(令和4)年12月 松村 一 氏制作

正月に門口に立てるマツ。御松様とか門神様と呼ぶところもある。「松迎え」といって12月13日の事始めや年の暮れに山から伐ってくるところが多い。正月様が降臨する依代(よりしろ)で、かつては入口の前の門
に大きなマツを立て、根元に砂を円錐形に盛った。今日のように表の入り口の柱に一対取り付けるのは
新しい都会風である。マツだけでなく竹・サカキ・ナラ・ツバキ・クリ・シキミなどの常緑樹を用いるところもある。また門松を立てない地方もある。
「絵引 民具の辞典」河出書房新社2008引用

第2展示室

第2展示室では地域で長く使われてきた生活道具などを展示しています。昔懐かしい農具や貴重な道具をはじめ、古民家を移築した農家の土間もご覧いただけます。お年寄りの方々をはじめ皆様に興味深くご覧いただき、飯田市下伊那地域の当時の生活を現在に伝えます。
【展示品数 / 民俗資料: 約1500点】

市田柿

高森町の特産品として今も盛んな市田柿についての展示室です。市田柿の歴史やなりたちをまとめた地域固有の珍しい展示です。

櫓(やぐら)時計など

廊下には計算機や時計、ミシンなど今も身近な機械が展示されています。

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